深掘り!講師インタビュー【第1回】面接・小論文:尾川先生②中学から大学までの進路選択
尾川先生の深掘りインタビューの続きです。
第2回は中学生以降にどんな過ごし方をされたのか、またどのように進路選択をされてきたのかという内容です。
大学受験までを、さらに深掘りしていきます!
並木先生(塾長)
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中学校は厳しかった?
並木:中学は最寄りの中学にそのまま進学しましたか。
尾川:はい、最寄りの中学ですね。最寄りと言っても近いわけではないので、自転車通学なんですよ。ヘルメットをかぶって、自転車で通学していました(笑)。
並木:中学校は楽しかったですか?
尾川:あまり楽しくなかったですね。そのときにいらっしゃった校長先生が急に厳しい方針になられたみたいで、「とにかく岩国高校に受からせる」とおっしゃっていました。
並木:勉強させるっていう感じですか。
尾川:そういう方針に変えたみたいです。それまでは私の中学からは岩国高校へ毎年50人か60人ぐらい進学していたのですが、私の年は110人ぐらい行ったんですよ。ものすごい量の宿題も出たし、朝テストもありました。朝テストは10分間の10点満点で、それが毎日あって、1つでも間違えたら居残りでした。
並木:そうなんですね。
尾川:その分、部活動に行くのも遅れるんです。
並木:公立でそんなに厳しいのは珍しいですね。
尾川:先生方も大変でしたよね。毎日テストを作って採点して、夕方までに返さないといけないので、相当頑張られたと思います。
並木:今の時代だとあんまりなさそうですけど、どうなんでしょう。
尾川:ないと思いますよ。校長先生は私たちの卒業と同じ年に定年退職されたので、私たちが最後の学年でした。「最後に岩国高校に多数の生徒を合格させる」ということがご自分の目標だったんでしょう。
並木:だけど、やっぱりやる側としては…。
尾川:やる側として苦痛ですよね。中学のときに中学生らしい遊びをあまりしていなかったです。
中学時代の部活動
並木:部活動はどうでした?
尾川:部活動は陸上部に入っていました。ただ、入ってすぐ怪我をしてしまったんですね。成長痛みたいなものだったのか、腰が痛くなったので、「止めようかな」と思ったんですが、部活動の顧問の先生が30代前半ぐらいの女性のすごくいい先生で、「マネージャーをしなさい」と言われて、見よう見まねでマネージャーを始めたのですが、これはすごく良かったです。それまでの生活では人の世話をする機会はあまりなく、母も専業主婦だし、「勉強やピアノだけしとけばいい」って感じで、家の手伝いもほぼしていなかったので、人の世話をする経験は良かったです。
並木:なるほど。教えるところにも繋がっていますか。
尾川:繋がっていますね。中学生に大したことはできないですし、人のサポートと言っても精神的なサポートなどは全くできないのですが、「ここにこれを揃えておかないといけない」「この試合にこれを持っていかない」みたいな段取りをつけることはビジネスでも活きました。
中学時代は塾に行った?
並木:するとやっぱり、中学時代は勉強が中心ですか。
尾川:宿題がかなり出るので、それが最優先でした。ピアノも止めていなかったので、ピアノと部活動もしていました。
並木:そのときの習い事はピアノだけですか。
尾川:ピアノだけですね。学校から宿題もかなり出るので、塾にも行っていませんでした。
並木:中学時代は塾へは行かなかったんですか?
尾川:行けないんですよね、本当に。「塾に行く間もなく宿題を出す」という方針でした。
並木:逆に言うと、それだけやっていれば受かるような。
尾川:そうですね。岩国高校レベルだと、学校からの宿題をして、教科書レベルのことを毎朝の小テストで確認していると受かると思います。高校受験用の塾は全く行っていないです。
並木:お母様もやっぱり方針は変わらず。
尾川:厳しかったです。「やりなさい、やりなさい」ですよね。
並木:宿題の量も増えたから。
尾川:そうそう。精一杯ですよね。ほかには全く何もやっていないです。
高校生活は勉強中心
並木:その後、晴れて岩国高校に合格されて、岩国高校の生活はどうでした?
尾川:岩国高校でも、引き続き陸上部のマネージャーをすることになりました。友だちにすごく足が速い子がいて、中学の先生から「あの子を支えなさい」と言われて、私も「勉強だけっていうのもな」と思っていたので、陸上部に入りました。母はもう少し緩い部活動に入ってほしかったようですが、私としては「運動部にいたほうが楽しそうかな」という気持ちもありました。高校では最初からマネージャーとして入って、3年生の6月1週目の県大会で辞めました。その友だちはインターハイにも出るような子でしたが、私は先に県大会で引退しました。
並木:それをやりつつ。
尾川:勉強ですよね。
並木:勉強は大変でした?
尾川:大変でしたね。英語は得意なはずでしたが、高校は量が多いし、スピードも速かったので、ついていくのが大変でした。当時は公立も土曜授業があり、英語は『リーダー』と『サイドリーダー』が週に3コマずつありました。数学は数Ⅰですが、先生が2人ついて、「この単元はこの先生」みたいに、これも週3コマずつあったので、とにかく予習に追われていました。
数学は家庭教師に教わる
尾川:数学は家庭教師の先生についていました。幼なじみにすごく賢い子がいたんですね。その子が家庭教師の先生をつけることになり、母が「一緒に習いなさい」と言うので、その子の隣で「おまけ」のように習っていました。
並木:その方はやっぱり優秀ですか。
尾川:優秀です。企業の弁理士さんです。
並木:すごいですね。
尾川:その子がメインで習っていて、私はセンター試験が終わったときに、先に止めました。
並木:その方は弁理士さんということは理系ですか?
尾川:そうです。名古屋大学理学部化学科から京都大学の大学院に行きました。
並木:家庭教師の先生とは何を勉強していたんですか。
尾川:『4STEP』の問題集を学校でやっていたんですけど、それを週に2回、家庭教師の先生ともやっていました。
並木:ちなみに、学生の先生でした?
尾川:いえ、プロの先生でした。
並木:じゃあ、岩国市の中で評判のいい方ですか。
尾川:そうです。父の知り合いです。本当に、私にはもったいないほどの先生で、その子のためのプロジェクトでしたね。
塾と予備校にも通った
尾川:英語は高1の夏から近所の塾に行っていました。10人ぐらいの集団塾です。
並木:それは高校に近い塾だったんですか?
尾川:その塾はもともと高校受験に強い塾で、その近所の中学校の子たちが高校受験のために通っていたんです。高校受験でその塾にお世話になった子が高校生になってからもその塾に通っていて、数学を習っていると聞いたのですが、私は数学は家庭教師の先生についていたので、数学はいいかなと思っていたら、「英語のクラスもあるよ」とのことで、英語だけ週に2回、行くことにしました。岩国高校から実家とは反対の場所にあるのですが、バスで簡単に行けるところで、行きはバスで、帰りは親に迎えに来てもらっていました。
並木:なるほど。では、高1から英語と数学を?
尾川:そうなんです。高1から英語は塾で、数学は家庭教師です。それから高1と高2の間の春休みからは長期休みのたびに広島の河合塾に通いました。近所に真理ちゃんという6歳上のお姉さんがいたんですね。その真理ちゃんは親の知り合いの子どもなのですが、河合塾で浪人後に広島大学に合格し、家庭教師をしてくれることになったんです。それで中1と中2の間の春休みからときどき真理ちゃんに習うようになったのですが、真理ちゃんが「河合が河合が」と言うので、私も河合塾に行ってみたくなり、高1と高2の間の春休みに初めて河合塾に行きました。
並木:それは何の科目ですか。
尾川:英国数で、河合塾のいわゆる春期講習です。2年生になってからは世界史も受けましたし、3年生になってからはセンター試験対策の生物や小論文も受講していました。
並木:じゃあ季節講習だけ通って。
尾川:そうです。やっぱり広島までは遠いので、毎週は無理ですよね。当時の予備校はいわゆるチョーク芸人というような華やかなスター講師がいました。世界史の青木裕司先生もそのお一人で、その先生の講義を取りたくて、高2の夏、冬、高2と高3の間の春、高3の夏、冬に行きました。二次試験の直前講習は英語と小論文を受講しました。
並木:じゃあ結構、長期休みは予備校に。
尾川:行きましたね。
予備校はプレ一人暮らし
尾川:ずっと広島校に通っていたのですが、高3の夏だけは福岡校に行きました。私の家から通える大学はなく、「大学生になること=一人暮らしをすること」だったので、母が「一人暮らしの練習をしたほうがいい」と言い出して、福岡校に行くことになったんです。福岡校には通えないので、提携しているホテルに泊まるんですよ。それが一人暮らしの練習でした。
並木:2、3週間ですか?
尾川:そうです。2週間ですね。河合塾は1週間を「1ターム」というのですが、2タームほど行きました。
並木:ちなみにそれは食事とかついているんですか。
尾川:ついているんですよ。朝と夜はホテルでの食事がついていて、昼はついていないので、河合塾の学食で食べます。
並木:今もあるのかな。
尾川:どうなんでしょうね。予備校が華やかな時代でしたね。
並木:にぎやかでしたよね。
尾川:それがすごく楽しかったです。
大学選びと受験戦略
尾川:その高3の夏休みに福岡校に行き、最終的に志望校を決めることになりました。その頃は九州大学文学部を目指していたので、九大の二次試験のための講座を取りました。私はやっぱり数学が苦手だったので、センター試験までは何とかなりそうでしたが、二次試験で数学があるところを受けられそうかどうかをこの夏に見極めようと母と決めたんです。この講座を受けてみて、それで駄目なら、二次試験で数学がある大学の受験は止めようという戦略ですね。私、空間ベクトルが苦手だったんですよ。
並木:ああ。
尾川:それで、これが二次試験に出たら嫌だなということになりました。センター試験には空間ベクトルは出なかったんです。
並木:講習を取って、判断したんですね。
尾川:そうです。これでもういいか、みたいな(笑)。
並木:夏休みが終わったときに方針を変えたわけですね。
尾川:そうです。「二次試験に数学がある大学を外す」みたいな方針です。ただ、小論文はお蔭様で今、教えているぐらいだし、得意なんですよ(笑)。それで、二次試験に数学がなくて、小論文がある大学を探すことになりました。
並木:なるほど。
尾川:小論文は高2の3学期から始めていました。
並木:それはどこで?
尾川:Z会です。
強み発見!小論文が得意
尾川:私より上の世代で、入試で小論文を使った人はあまりいないと思います。私の学年の少し前から入試に小論文が始まったようです。九州大学は文学部の二次試験が「小論文と古文と英語と数学」になっていて、「現代文の代わりが小論文なの?」ということで、小論文という科目を初めて知りました。それで「小論文って、何だろう」と赤本を見に行ったら「何か面白そうじゃん」と思ったんです。でも、それをどこで教えてくれるのか、分かりませんでした。そうしたら、母がどこかから「Z会というところで、小論文の通信添削をしているんだって」と聞いてきました。それで、とりあえずZ会に入会して、小論文を書いて出してみたんですよ。1回目の添削が返ってきたら、赤ペン先生からめちゃめちゃ褒められていたんです。Z会は成績優秀者のニックネームが「旬報(じゅんぽう)」という冊子に載りますが、「そこの常連になりそうな人が入ってきましたね」と書かれていました。名も知らない赤ペン先生から褒められたことがとても嬉しくて、そのときに「私は小論文が得意なのかもしれないな」と思ったんです。
並木:なるほど。
尾川:それからずっと苦手意識を持つこともなく、続けてきました。高3の夏休みに代ゼミで小論文模試を受けたら、これもかなり良い点が出て、「だったらもう二次の数学でヒヤヒヤするよりは小論文で勝負できるんじゃないかな」と思ったんですよね。そうしたら、秋のZ会の模試で、小論文がなんと全国4位になったんです。
並木:へえ、すごい!
尾川:すごいんです(笑)。「私、これで入試小論文は何とかなりそうな気がする」みたいな感じになりました。センター試験も何とかなりそうだったので、あとは二次試験の英語だということで、英作文はプロの先生につきました。
並木:それは家庭教師ですか。
尾川:そうです。
並木:そうか、その辺はお父さんが学校の先生だったから。
尾川:そうですよね、やっぱり人脈がありますよね。それと母が当時にしては情報通でしたね。佐藤ママみたいな(笑)。
並木:以前の座談会で聞いたママもいらっしゃいましたよね。お母さんがお預かりしていた赤ちゃんのママ。
ママの話→
尾川:そうそう!そのママも高校教員だったので、教員住宅でご一緒だったんです。
並木:そういうことですか。
尾川:そうなんですよ。そのママが高校の先生で、すごく素敵で、ピアノもされていたから、私もピアノをずっと続けていました。文章を書くとか、綺麗な字を書くとか、その辺のロールモデルはその赤ちゃんのママですね。その赤ちゃんは東北大学に行き、メーカーで研究者をしています。子どもさんもいるので、そのママももうおばあちゃまなんですよ。
大学受験は厳しい時代
並木:尾川先生は、大学は現役で合格されたんですか。
尾川:ものすごく厳しい時代でしたが、何とか現役で行きましたね。「団塊ジュニア世代」なので、人が多かったんです。
並木:そうか、それは大変でしたね。
尾川:「大学に行きたい」という人が初めて100万人を超えたのが90年入試らしく、「史上初のミリオン入試」と言われていました。
団塊ジュニア
第二次ベビーブーム世代とも。1971~1974年に、毎年200万人以上生まれた世代。団塊世代(第一次ベビーブーム、1947~1949年)の年間260万人超に次ぐ出生率で、団塊世代の子世代に当たるので「団塊ジュニア」と呼ばれる。 |
尾川:河合塾も満員でしたし、青木先生の授業を取るために母に並んでもらったりしました。当時はインターネットもないし、電話も繋がらないんですよ。
並木:そうですよね。今ではもう信じられないですよね。
尾川:ですよね。夫は私と同い年で、東京の代ゼミに行っていたんですけど、代ゼミも満員で「オペラグラスで見るような大きな教室だった」って言うぐらい、人がいたそうです。
並木:そうですよね。
尾川:500人教室が満員だったらしいですよね。
並木:500人教室が、ですか?
尾川:広島や福岡の河合塾は教室もそんなに大きくなかったですけど、東京の代ゼミはすごかったみたいです。
並木:すごいですね。
予備校がタダ?
尾川:模試でA判定を取ると、代ゼミが無料なんですよね。
並木:それは私のときもありました。当時は巣鴨高校が優秀だったのもありますし、浪人するときに、代ゼミに通うなら「ゴールドメイト」って言って、無料で1年間通えるっていう。
尾川:それ、すごいネーミングで、おかしいですね(笑)。
並木:僕の友だちはそれで代ゼミに行きましたね。僕はいとこが駿台で東大に受かっていたので、「やっぱり駿台のほうがいいのかな」と思って、結局ゴールドメイトを蹴ってというか。
尾川:あの頃は「東大」となると駿台でしたよね。
並木:駿台がやっぱり強かったですからね。特に理系は強かった。
尾川:御茶ノ水のでしょ。
並木:そうです。だから結局、駿台に行きましたけど、当時はゴールドメイトで、巣鴨を卒業していれば無料で1年間は勉強できたので、すごい時代ですよね。今だとそういうの、もうないですよね。
尾川:ないと思います。
並木:東進が近いことやっているみたいですけど、さすがに昔の巣鴨みたいに、学校名で免除っていうのはなさそうですよね。
尾川:そうですよね。私の頃は東進はまだそんなにメジャーではなく、「金ピカ先生がいるよ」ということぐらいは知っている程度でした。
並木:まだ映像化になってなかったですよね。
尾川:代ゼミのサテライトみたいなのはありましたけど、広島は後発だったので、有名なのは河合塾だったんですね。それから鴎州塾とか、広島だけにある塾もありました。私は河合塾と、小論文に関しては高3の夏休みに福岡から帰ってきて、広島の代ゼミに少しだけ行きました。日頃はZ会でしたね。
経験したから不安が分かる
並木:今のお話を聞いていると、一番思い出深いのはZ会ですか。
尾川:Z会は先生に恵まれたっていうことはすごくありますよね。お顔も知らない先生ですけど、すごく褒めていただいて良かったなと思います。当時も今も小論文という科目は正式な教科ではなく、学校の授業にはないので、自分がどの位置にいるのか分からないんです。そこで通信添削で褒めていただいたことで、「この小論文を使って、大学受験ができるんじゃないか」という自信をもらった気がします。これは今の仕事にも役に立っていることですね。皆さん、不安な状態で塾に来られますので、「こういうことが書けなくて不安だよね」「書いているつもりだけど、伝わっていないんじゃないかということが不安だよね」という気持ちが分かります。
並木:なるほど。じゃあやっぱりそこはベースにある部分がありますよね。
尾川:ありますね。
小論文には熱心だった
尾川:それから当時、旺文社ゼミという通信添削でも小論文があり、広島大学の総合科学部を目指していた友だちがそこで通信添削を受けていました。広島大学の総合科学部も二次試験が英語と小論文だったので、その子とは河合塾の直前講習まで一緒でした。それで、その子の旺文社ゼミの問題をコピーさせてもらって、自分の原稿用紙に小論文を書いて、高校の現代文の先生に添削していただいたりもしていました。
並木:じゃあ、かなり意欲的に。
尾川:はい、そこは妙に(笑)。旺文社ゼミのほうがZ会よりも難易度が低かったです。
並木:そうなんですね。やっぱりZ会は、結構難易度が高かったですか。
尾川:はい。Z会は難しかったですが、今から思えば良問でしたね。Z会の「旬報」に国語とかの問題も出ているので、課題文を読んだりはしていました。それから投稿欄が面白くて、皆の文章がうまいので、毎回げらげら笑っていました。投稿欄は今も好きで、今は夫が『大学への数学』を購読しているので、その投稿欄だけ読んでいます(笑)。
並木:昔の『週刊少年ジャンプ』のお葉書みたいな。
尾川:そうそう(笑)。
大学受験の一番の師匠は
並木:そうすると、大学受験のときの“師匠”みたいな人を挙げるとすると、誰ですか。
尾川:Z会の、姿も見えない赤ペン先生もそうですし、小論文に関しては色々といらっしゃいますね。
並木:ほかの科目では?
尾川:英作文に関しては家庭教師の先生です。最後のひと月、センター試験が終わってから二次試験までは、その先生に英作文を見ていただいて、本当に良かったです。英作文は個別指導を受けると、大きく伸びますね。それは小論文にも言えることかと思っています。そのほかは「この先生!」っていう師匠は特にいませんが、色々な塾や予備校に行き、様々な先生方の授業を受けてきたことはこの仕事をするにあたって、とても有り難い経験でした。
並木:なるほど。
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