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深掘り!講師インタビュー【第1回】面接・小論文:尾川先生①幼少期、小学校はどう過ごしたか

「深掘り!講師インタビュー」は、究進塾で活躍されているプロフェッショナルな先生方に、インタビューを行っていく企画です。

 

第1回は尾川先生です。尾川先生は現在、大学入試や公務員試験のための「面接対策」「小論文対策」の講義を担当されています。アナウンサー、高校の英語教員など、様々な経歴をお持ちの尾川先生はどんな経験をされてきたのでしょうか。

 

代表の並木先生が深掘りインタビューしました。

 

並木先生(塾長)
大学受験生に化学を教えています。趣味は読書と野球観戦(ベイスターズファン)、カレー食べ歩き、子どもの遊び場開拓。1児の父として子育てしていることから、最近は幼児教育にも関心を持っています。

 


尾川先生

株式会社熊本放送に総合職として勤務し、アナウンサー、ディレクターなどを経験。
その後、2003年から公務員試験、アナウンサー試験、大学受験、医学部受験などの面接、小論文の講師として活躍中です。

 

 

 

育ったご家庭や、幼少期について

 

並木:最初に幼少期から伺っていきたいんですけれど、ご兄弟はいらっしゃいますか。

 

尾川:4つ下に妹がいます。

 

並木:子ども時代はどんなお子さんだったんでしょうか?

 

尾川:負けず嫌いでした。特定のエピソードがあるわけじゃないんですが、「お先にどうぞ」みたいな弱気な子ではなかったと思います。

 

並木:妹さんも負けず嫌いですか?

 

尾川:妹はおっとりしていました。今はどちらかと言うと、妹のほうが強気な感じもしますけど、小さい頃は妹はすごくおっとりしていて、10歳ぐらいでキャラ変しましたね。

 

並木:親御さんから、妹さんとの比較みたいなのはよくありました?

 

尾川:「あなたお姉ちゃんだから」と言われたことはないですし、4つ違うと一人っ子が2人いる感じだと思います。

 

並木:結構ずっと仲が良かったですか。

 

尾川:今は、人からはとても仲が良い姉妹だと言われますが、小さい頃はしょうもないことで喧嘩していました。

 

 

習い事について

 

並木:習い事は何をされていましたか?

 

尾川:習い事は結構していました。最初に習い始めたのがピアノですね。これは5歳から始めて、それと並行して「聴音」もしていました。「聴音」はリズム遊びのようなもので、これはピアノとは別の先生に教わっていました。あとは絵ですね。お絵かきを幼稚園から小学校2年生まで習っていました。

 

並木:そうですか。

 

尾川:それで小学校2年生のときに絵を止めて、書道に変えました。それと剣道ですね。剣道はすぐ近所、うちから100mぐらいのところに道場があり、そこへ近所の子たちがよく行っていたので、「私も行きたい」と言って始めました。これは小学校6年生までしましたね。

 

並木:小学校に入る前から?

 

尾川:そうですね。年長のときからです。

 

並木:じゃあ、結構長く続けました?

 

尾川:結構長くやりましたね。

 

並木:なるほど。

 

尾川:あとは英語ですね。これは小4からですかね。

 

並木:いつぐらいまでですか?

 

尾川:英語は小4から中1、中2ぐらいですかね。近所に先生がいらして、2つ年上の幼なじみ的なお姉ちゃんが中学校に入る前に始めたいということだったので、私も「おまけ」のようにくっついて習っていました。

 

並木:その英語は中学に入ってから英語を習い始めたときに役に立ちました?

 

尾川:ものすごいアドバンテージでしたよね。中学校に入ったときには中1の教科書で書いてあることをもう全部、分かっている感じでした。それはとても良かったです。

 


 

色々な習い事をされていたんだきゅ~


並木:かなり役に立ちました?

 

尾川:役に立ちましたね。中学校3年間を通して、英語は本当に得意科目でした。

 

並木:幼少期の習い事はご自身で行きたいって言ったものが多いのか、それとも親御さんが勧めたのか、どちらですか。

 

尾川:剣道と書道は「近所の子が行っているから」という理由で、私から行きたいと親に言いました。ピアノと絵は親ですね。聴音は親が誰かに勧められたのだと思います。

 

並木:ちなみに、ピアノはその後、役に立ちましたか。

 

尾川:ピアノは集中力も養えますし、「これを弾けるようになりたい」という目標を立てるので、それまでの計画性とか、できないことをできるようにすることとか、その後の人生で役に立つマインドを得られました。また作曲家の名前を知るので、芸術への扉を開いてくれたりもします。その意味ではいい習い事ですし、ピアノでなくても、楽器を習うというのはいいことだと思います。

 

並木:割とコツコツやらないと。

 

尾川:そうなんです、コツコツ継続。毎日練習しないと衰えてしまいますしね。先生にすぐにバレます(笑)。

 

並木:ピアノは長く習い続けましたか?どのぐらいまでされていたんですか?

 

尾川:高3の5月までです。長くしましたね。

 

 

習い事と地方の高校事情

 

尾川:私、山口県岩国市っていうところの出身で、そんなに都会ではないので、高校受験がそこまでハードじゃないんですよね。浦和高校(埼玉)、熊本高校(熊本)とかだと「1ミス」とか「2ミス」の世界で、そのぐらいしか間違えられないと言われていますが、当時の岩国高校は250点満点中で180点ぐらいあると受かりました。都会の進学校に比べるとかなりハードルが低いので、受験のために習い事を止めなくていいんです。中学3年生で勉強以外の時間が取れるということは習い事が継続できるということなので、それは田舎で育つことのメリットですよね。

 

並木:岩国高校という学校は地元では一番の進学校なんですか。

 

尾川:そうです。岩国市って、当時は岩国高校、岩陽高校(現 岩国総合高校)、岩国商業高校、岩国工業高校、私立の高水高校の5校しかなく、高水高校の中に中学校が付属している特進コースみたいなコースとそのほかのコースがありました。

 

 

並木:なるほど。地方は「いい学校は県立」なんですかね。

 

尾川:そうですよね。熊本もそうですしね。広島は広島学院とかノートルダム清心などの私立が「東大に行くような学校」という感じですが、そういう私立優位なのは広島県ぐらいじゃないですか。九州もラ・サールや久留米大学附設は私立ですが、それぞれの県のトップ校は公立ですよね。

 

並木:広島の中学受験は考えなかったんですか。

 

尾川:岩国にも広島学院、修道、ノートルダム清心、広島女学院、広大附属といったところに中学受験する人はいます。ただ、私の家は岩国駅に出にくいところにあるので、広島の中学に行くとなると、岩国駅で乗り換えになるんですね。それで通学が大変ということで、親は賛成しませんでした。私自身は中高一貫校は楽しそうでいいなと思いましたが、親は「岩国高校でいいでしょ」みたいな感じでした。

 

 

ご両親は教育熱心?

 

並木:お父様、お母様は教育熱心な方ですか?

 

尾川:めちゃめちゃ教育熱心でした。父は高校の地理の教員で、母は専業主婦という家庭でした。

 

並木:お二人とも熱心なんですか?

 

尾川:熱心ですね。親が県立高校の教員だから、小さいときには社宅や官舎みたいな教員住宅という集合住宅に住んでいました。だから、近所の子たちは先生の子どもばかりで、よく遊んでもいましたが、真面目な子たちでもありました。

 

並木:いい刺激というか、そういうものを受けながら。

 

尾川:そうですね。でも習い事がない日は教員住宅の子たちとよく遊んでいました。

 

並木:いい環境ではありましたね。

 

尾川:そうですね。お父さんたちはほとんど先生ですし、お母さんが先生というご家庭もありました。

 

並木:親御さんから読み聞かせとかは結構してもらったんですか?

 

尾川:かなりしてもらいました。ただ、私が母にしてもらったことの記憶よりも、どちらかと言うと、母が妹に読み聞かせしていたシーンのほうが思い出にありますね。「今日も読んでるわ」みたいな感じで。

 

並木:そのときは読み聞かせはもう卒業されていたんですね?

 

尾川:4つ違ったので、妹が1つのときに私が5つだから、私は卒業していたんでしょうね。妹に母が読み聞かせていたときに、母のほうが先に寝ていたというシーンも記憶にあります(笑)。

 

並木:それはあるあるですね。やっぱり寝るときにはそうなりますよね。

 

 

小学校の成績

 

並木:小学校のお話を伺いたいんですけど、小学校の成績はいかがでした?

 

尾川:小学校の成績は悪くはなかったですけれど、素晴らしくいいというわけでもないですね。「クラスで1桁ぐらいにはいるかな」ぐらいの成績だと思います。順位が出ないから正確には分からないですけど、自分の意識としてはそんな感じですよね。

 

並木:勉強系の習い事は小学校時代にはされましたか?

 

尾川:英語だけです。算数などの塾には行っていません。中学受験すると決めていたらそういう塾に通ったのでしょうが、しないとなったので、行っていないです。

 

並木:そうですか。好きな科目は何でしたか?

 

尾川:好きな科目は国語ですかね。あと社会も。父が地理の教員だったってこともあって、土地だとか地名だとか、そういうことが家の中に飛び交っていて、地球儀や地図帳も身近でしたし、そういう意味では社会も好きでしたね。

 

並木:苦手な科目はありましたか?

 

尾川:算数も得意とは言い切れないですが、理科のほうが苦手ですかね。特に星に興味が持てなかったです。

 

並木:その辺は、ご両親の関心と関係するところは。

 

尾川:星については家庭での話題もなかったですね。小学校のときに「星を見る会」みたいな、校庭に天体望遠鏡を…どなたかがお持ちなのか、学校が持っていたのか分からないけど、それを校庭に置いて星を観察するという催しがありました。岩国市は石油化学コンビナートの街なので、そんなに空気が綺麗じゃなかったんですよね。

 

岩国のコンビナート

山口県の瀬戸内海沿岸では、大正時代より造船、化学、機械、金属などの工場が次々に進出。第二次大戦後は、石油化学コンビナートが形成、全国有数の工業県に発展。
宇部・山陽小野田などの西部地域では、美祢市のカルスト台地から産出する石灰石を原材料とするセメント製造工場が立地し、周南・岩国など東部地域の石油精製コンビナートでは、ソーダなど化学製品を生産する企業が集中。
(山口県企業立地ガイド「山口県の産業・経済」より引用、編集。)

 

尾川:だから星を見る機会もあまりなかったので、「そういう機会に行ったほうがいいのかな」ってことで行ってみたんですが、何のことか分からなかったです(笑)。プラネタリウムが広島にあって、親も結構連れて行ってくれたんですけど、これもあまり興味が持てなかったです。

 

並木:行ってはみたけど、みたいな。

 

尾川:そうなんですよね。数年前に、妹の子どもと渋谷のプラネタリウムにも行ったんですけど、寝ていましたね(笑)。

 

並木:そうですよね。興味ないと完全に「良い昼寝の場所」みたいな。心地よく寝られますよね。

 

尾川:説明する人の口調や話し方も優しいですしね。

 

 

博物館見学は役に立った?

 

並木:博物館はどうですか。

 

尾川:すごく行きましたね。美術館も行きました。母が結構、そういうのに連れていってくれました。母は野球が好きで、カープファンなのですが、当時はマツダスタジアムではなく、広島市民球場だったんですね。ここで野球を観る前にプラネタリウムか、美術館がセットになっていました。母はそういうところに連れていくことが教育上、必要だと思っていたみたいです。それで一応、勉強してから野球に行くという流れになっていました。

 

並木:広島市にあるんですね。

 

尾川:あるんですよ。美術館も、県立も私立の美術館もありました。

 

並木:「そういうのがきっかけで興味持ったな」と思うものはありますか?

 

尾川:美術館の中では「ひろしま美術館」がとても好きでした。ここは広島銀行の創立100周年記念に作られた美術館らしいのですが、ここでモネや印象派について知りました。それで小学生のときに、母から『絵の前に立って』という本を渡されました。母も誰かに勧められたらしいのですが、それが私が人生で最初に読んだ新書です。

 


中山公男著『絵の前に立って-美術館めぐり』岩波ジュニア新書

 

ひろしま美術館

事業主体は広島銀行、運営主体は公益財団法人ひろしま美術館。1978(昭和53)年11月3日、広島銀行が創業100周年を記念して開館。

展示はフランス印象派が中心。他に、ゴッホ、ピカソ、日本の近代洋画など。経営の観点から言うと、ヨーロッパ型の美術館は税金で経営が行われるのが特徴であり、広島美術館はアメリカ型の美術館と言える。

(参考:ひろしま美術館公式HP、せとうち美術館ネットワーク「せとうち美術館紀行「ひろしま美術館」)

 

並木:そこからの経由で、色々と興味がわきました?

 

尾川:そうですね。今も美術館、博物館、文学館などは好きですし、その後、世界史の暗記のときに「ああ、モネだ」みたいにイメージが湧きましたね。

 

並木:やっぱり繋がっているんですね。

 

尾川:繋がっていると思います。ピアノでドビュッシーを弾くときに、「ドビュッシーとモネが友だちだった」と聞くと、「モネって、あのモネか」みたいな。そういうのは繋がりますよね。

 

並木:それはいいきっかけですね。

 

尾川:そうですね。高校のときって、山川の『一問一答』をすごくやるじゃないですか。1問ずつ正解を隠しながら答えていくときに、「モネ」と答えようとすると「文字」に「絵」のイメージがくっついてきますよね。

 

並木:なるほど。

 

尾川:それはすごく良かったです。いい影響があったと思いますね。

 

 

小学生で夢中になったもの

 

並木:小学校の頃は何に一番夢中になっていたんですか?

 

尾川:夢中になったものはなかったですね。とりあえず母が厳しいので、「とにかく宿題は絶対やらなきゃいけない」ということで、宿題をやってから習い事か遊びでした。「まず帰ったら宿題」でした。

 

並木:それは結構厳しく?

 

尾川:厳しかったですね。当時は皆がそんなふうでしたよ。宿題を忘れて遊びまくっていたという人はあまりいなかったように思います。

 

並木:今となっては、それで習慣が身についた面がありますか。

 

尾川:ルーティンができたような気がします。宿題をやって、「次の日の日課を揃える」というのがルーティンでした。次の日は体操服を持っていくとか、書道のセットが必要だとか、そういうのまで揃えてしまってから遊びに行きます。「日課を揃える」というのは今も結構ルーティンになっています。

 

 

並木:そうですか。

 

尾川:社会人なので、「日課」という言葉はおかしいのですが、家の中でつい「日課」と言っています。「明日の日課を揃えてくるわ。明日は◯◯に行くから、◯◯を持っていかないと」みたいな感じです。このルーティンがあるからか、あまり忘れ物がないですね(笑)。

 

並木:そうですか。それを聞くと、最優先事項はやっぱり…。

 

尾川:勉強ですよね。宿題をするっていうことでした。宿題は必ず出ていたので。

 

並木:学校からですよね。

 

尾川:そうですね。普通の公立小学校で、担任の先生も1年生、2年生、3、4年生、5、6年生で、4人いましたけど、小さかった小1のときはともかく、宿題を出さない先生はほとんどいなかったですね。

 

並木:お友だちと放課後、夢中になって遊んだ、みたいなのは。

 

尾川:学校の中で遊んで帰ることはあまりなくて、学校が終わったらまずは帰って宿題して、その後に遊びに行くか、習い事に行くみたいな日常でした。

 

並木:遊ぶのは教員住宅の中の子ですか。

 

尾川:教員住宅の友だちもそうですし、ほかの友だちとも遊んでいました。

 

並木:それがすごく楽しかったみたいな。

 

尾川:楽しかったですよね。教員住宅だと、お父さんたちはまだ学校に行っていて、夕方遅くにならないと帰ってこないので、駐車場のところが全部空いているんですね。そこでローラースケートをやったりとか。これは都会ではできないことですね。

 

並木:確かに。

 

尾川:何十台分の駐車場が空っぽになっているので、そこでローラースケートをしました。

 

並木:中学受験はされなかったんですよね。だからそれはプラスだったというか。

 

尾川:遊びの時間があったこと、親がうるさかったこともあって学校の宿題をしていたこと、習い事の継続ができたというのは中学受験をしないことのメリットだと思います。東京でピアノの先生をしている友だちが「中学受験で止める子が多い」と言っていましたし、都会の子はそこで1回ストップしちゃいますよね。

 

並木:そうですよね。

 

尾川:うちの夫は中学受験をしているのですが、やっぱり習い事を中断しているんです。そこが都会の子のかわいそうなところかもしれません。

 

 


 

究進塾 編集部

 

 

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