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子ども新聞を読んで感じた、ささやかな危機感
子どもが小学生に上がったタイミングで、我が家では「朝日小学生新聞」を購読し始めました。
ほぼ毎日届くのですが、これが意外に面白い。
身近なニュースから社会情勢や環境問題へと自然につながっていきますし、写真や絵も豊富で読みやすくできています。ちゃんと新聞を読むという経験は本当に久しぶりなのですが、改めて新聞のよさを実感しています。
振り返ると、私が子どものころ、実家では朝日新聞を購読していました。私も無意識のうちに、それに触れて育ちました。中学受験のときには、母がどこかから「天声人語を100字で要約するとよいらしい」と聞いてきまして、その方法を実践することになりました。毎日のように続けたおかげもあってか、苦手だった国語はだいぶ克服された記憶があります。
高校に上がると、日曜日の書評欄を読むのが毎週の楽しみになりました。様々な分野の専門家が書いた書評を読み、「この本を読んでみよう」と思い立つこともありました。時には反発したこともあったかもしれません。
今思えば、そうした書評や論評に日々触れることで、知らず知らずのうちに自分なりの考えが醸成されていったのだと思います。知識人への一定のリスペクトも、そうした環境の中で共有されていました。
テレビも、もう少し分かりやすく、ある種「軽い」メディアではありましたが、近い役割を果たしていたはずです。いずれにせよ、そこには社会の中である程度共有された「共通のメディア空間」がありました。
ひるがえって現在の生活を見てみるとどうでしょう。私たちはインターネットによって、見たいものだけを見るようになりました。興味のない情報は表示すらされません。各自が信頼する「インフルエンサー」の言うことを信じるようになりました。
こうした情報環境の変化は、個人の生活に留まらず、社会のあり方そのものにも影響を与えているのではないでしょうか。
ふと、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を思い出します。フロムは、近代社会において人間が伝統的な共同体から切り離され自由になる一方で、孤立や無力感、不安を抱えるようになったと論じました。そして、その不安から逃れるために、人は強い権威に依存したり、自分より弱い存在を排除しようとする傾向がある、と指摘しています。
これがどこか現在の状況と重なって見えてしまうのです。
現在、各国で見られる権威主義の台頭、アメリカでの政治的混乱、排外主義が声高に唱えられる現実を目にするにつけ、AIは日々賢くなっているけれど、人は果たして進歩していると言えるのか―そんな疑問を抱かざるを得ません。
もちろん、便利になったことは疑いようがありません。どこにいてもAmazonで購入ボタンを押せば家に届き、NetflixやAmazonプライムには一生かかっても見切れないほどのコンテンツがあります。個人の生活の満足度は確かに上がったでしょう。
しかしその一方で、インターネットが日常の隅々まで行き届いたことによって心を病んだり、精神的に追い詰められる人が出てくる。陰謀論が浸透し、排外主義に共感が集まり、社会が分断されていく。そうした現実を見ると、私たちは何か大切なものを失ってしまったのではないかという気がします。
かつて存在していたもの。それは、新聞やテレビといった共通のインフラでした。
もちろんそこにはイデオロギーの違いや対立はありました。大まかに、朝日や毎日が「左派」、産経や読売が「右派」と分類されていました。それでも、メディアは大海原の中の「島」のような役割を果たしていました。同じ島に立っていれば、ある種のシンパシーが生まれる。異なる島に立っていても、主要メディアを手がかりに、接点を探すことができました。
ところが今は、その「島」が見当たりません。近い価値観だと思っていた相手とも、少し深く話してみると全くかみ合わないということが起こり得ます。まるで大海原で各々が一人ずつ立っているような状態です。そこでは連帯は容易ではありません。
そしてもう一つ、新聞には「偶然の発見」がありました。暇つぶしに何となく紙面をめくっていると、思いがけない記事に目が止まり、読んでみたら予想外に面白かった、学びがあった――そういう経験が確かにありました。
そのことを、ここ最近、朝日小学生新聞に触れていて痛感しています。
対照的なのが、普段何気なく読んでいるYahooニュースです。表示されるニュースの質の低さに驚くことがあります。スポーツ新聞や週刊誌の「こたつ記事」や「煽り記事」が次々と表示される。自分の恥部をさらすようですが、私の場合、意外と読みごたえを感じるのはプロ野球関連の記事の一部にあります。記者の熱量が伝わってくるからでしょう。それ以外では、ビジネス誌の教育関連の記事などは、相対的には読む価値があると感じます。が、自動的に表示されるゴシップ記事は、読んでしまうと時間が無駄になるだけではなく、「魂が削られる」ような気すらします。
かつては、暇つぶしに触れていたメディアが新聞でした。新聞を読みながら朝食を取るのは行儀が悪いと言われるほど、それは日常の風景でした。混んだ電車の中で器用に新聞を折りたたんで読むサラリーマンの姿も、珍しいものではありませんでした。
そう考えると、現在のネットニュースでは得がたいものを、新聞は確かに提供していたのだと思います。
今後、多くの人が再び新聞を読むようになる日は来るのでしょうか?
残念ながら、可能性は低いでしょう。
今になって失ったものの大きさを痛感しています。
ただ、少なくとも私は、「子ども新聞」の購読をきっかけに新聞のよさを再発見しました。
子どもが世界を理解するための、小さな「島」を、せめて家の中に用意しておきたいと思っています。
並木陽児![]() 究進塾代表。最近は老化による免疫力の低下を痛感し、これから健康に時間と労力をかけないと・・・と思う今日この頃です。 |




