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【1】乗数理論の出発点―広がり方の違いはどこから生まれるか
前回までの記事では、政府支出が経済循環の中に新しい需要を注入し、その一度の支出が所得と消費の連鎖を通して経済全体に広がっていく、という話を見てきました。いわば、止まったポンプに「呼び水」を入れることで、水の流れが再び動き始める、という話でした。
今回は、その広がり方そのものをもう少し丁寧に考えてみたいと思います。
政府が支出を行えば、経済は拡大します。しかし、その拡大の大きさはいつも同じではありません。あるときは大きく広がり、あるときはあまり広がらない。この違いはどこから生まれるのでしょうか。
ここで鍵になるのが、「貯蓄率」です。
人は所得を得たとき、そのすべてを消費するわけではありません。ある部分は消費に回りますが、残りは貯蓄になります。つまり、所得は常に「消費」と「貯蓄」に分かれます。
【2】貯蓄率と支出の連鎖―経済循環の具体的イメージ
ここで、仮に貯蓄率が0.2だとしましょう。これは、所得の2割が貯蓄に回るという意味です。逆に言えば、残りの8割は消費に回ることになります。
このとき、経済循環の中で起きていることを、少し落ち着いて考えてみましょう。
政府が100の支出を行うと、その100はまず誰かの所得になります。しかし、その100が次の段階ですべて支出されるわけではありません。貯蓄率が0.2であれば、そのうちの20は貯蓄として循環の外へ出ていき、残りの80が消費として次の企業の売上になります。

すると、今度はその80が新しい所得になります。しかし、その80もすべてが次の支出になるわけではありません。その2割である16は貯蓄として外へ出ていき、残りの64がさらに次の支出になります。
このように、支出と所得の循環は続いていきますが、そのたびに少しずつ貯蓄として外へ漏れていきます。
【3】「注入」と「漏れ」で理解する経済の広がり
ここで見えてくるのが、私がこれまで使ってきた
「注入」と「漏れ」
という考え方です。
政府支出は、国内経済循環への「注入」です。
これに対して、貯蓄は国内経済循環からの「漏れ」です。
経済が拡大するというのは、この注入によって循環が広がっていくことです。しかし、その一方で、所得が生まれるたびに一部は貯蓄として漏れていく。したがって、経済循環の広がり方は、最終的にはこの「漏れ」の大きさによって決まることになります。
ここで、もう少し分かりやすくするために、貯蓄率を変えて比べてみましょう。
もし貯蓄率が 0.1 であれば、所得の1割しか循環の外へ漏れません。つまり、残りの9割は消費として循環に戻ります。
この場合、支出の連鎖はかなり長く続きます。その結果、乗数は大きくなります。
逆に、貯蓄率が 0.4 であればどうでしょうか。今度は、所得の4割がすぐに循環の外へ漏れてしまいます。
すると、消費として循環に戻る部分は6割しかありません。この場合、支出の連鎖は早く弱まります。したがって、乗数は小さくなります。
つまり、
漏れが小さければ、経済は大きく広がる。
漏れが大きければ、経済はあまり広がらない。
このことが分かります。
【4】乗数を「計算」ではなく「流れ」で理解する
ここで大切なのは、乗数理論を単なる計算として見ないことです。
もちろん、学問としては数式で整理することができます。たとえば、貯蓄率が0.2なら、その逆数は
1 ÷ 0.2 = 5
になります。この5が「乗数」です。つまり、政府支出100は最終的に500の所得を生み出すことになります。
しかし、本質はそこではありません。
本当に大切なのは、なぜそのような数字になるのかを、経済の流れとして理解することです。
【5】逆算思考で理解する均衡―注入=漏れの意味
ここで役に立つのが、「逆算の思考法」です。
たとえば、最終的に政府支出100がすべて吸収されるためには、貯蓄として100が積み上がっていなければなりません。
もし貯蓄率が0.2であれば、全体の所得の2割が貯蓄になります。では、100の貯蓄を生み出すためには、全体としてどれだけの所得が必要でしょうか。
ここで、
500 × 0.2 = 100
となることが分かります。
つまり、経済全体の所得が500になれば、その2割にあたる100が貯蓄として生まれる。そしてこの100が、最初に政府が注入した100とちょうど一致するわけです。
ここで初めて、
注入 = 漏れ
が成立します。

言い換えれば、最初に注入された支出は、最終的には漏れとしての貯蓄によって吸収されます。そのとき、経済の拡大は止まり、財市場は均衡に達するのです。
【6】乗数理論の本質と次へのステップ
このように考えると、「乗数理論」とは、単に100が500になるという計算の話ではありません。支出が所得を生み、その所得がさらに支出を生むという経済循環の仕組みを、私たちが体感できる形から出発して、「乗数」という数字で確かめた理論なのです。
言い換えれば、現実に体感できる経済の動きを、学問の世界では数式を使って整理し、学者が納得できる形にしたものだといえます。
そしてケインズは、この「乗数効果」に着目することで、止まってしまった経済循環をどのように再起動させるかを考え、世界大恐慌のような深刻な不況を乗り切るための理論を構築したのです。
次回は、この「貯蓄率」と「消費率」の関係をさらに整理しながら、個人にとって正しい行動が、なぜ社会全体では逆の結果をもたらすことがあるのか、いわゆる「貯蓄のパラドックス」に進んでいきたいと思います。
執筆者プロフィール

S(イニシャル)
1964年生まれ。
公務員試験対策予備校や大学・専門学校など、様々な現場で学生を指導してきました。
得意なのは大学レベルの経済学、経営学、会計学で、究進塾では主に大学単位取得サポートコース(オンライン)を担当。
長年の豊富な指導経験から、「学生のつまづくポイント」を的確に把握しています。
堅苦しい「経済学」という学問を丁寧に解きほぐし、わかりやすく説明します。
とても親しみやすい性格で、質問もしやすいです。
生徒様お一人お一人に合わせた、また基礎を大切にした丁寧な指導がモットーです。



